2020年10月16日金曜日

野外でこそ輝くもの

学生時代を過ごした京都に、縁あって今でも年に一回は通っている。基本は魚の調査のための訪問で、川に設置した観測機器のデータ回収をし、その後にお師匠と一緒に水中を見るというのが大体いつもの流れである。
しかし、今回は台風直後ということもあり、川は増水し、透明度も低い。こうなると川に長居は無用である。一通りの作業を終えると、お師匠が事前に用意していた”プランB”を速やかに発動した。
まず目指したのは観光用に運営されている馬車の駅である。車で向かうこと20分、馬車駅に到着。しかし、小屋には馬はおらず、管理人さんだけがいた。「あのー、馬糞をいただけないでしょうか?」とお願いすると、多少戸惑いながらも、「あと20分もすれば帰ってきますよ。馬が出してれば持っていっても良いですよ。」との返事を頂く。ありがたいことに、馬が糞をしたかどうかの連絡までとってもらえた。
20分後には馬車が到着。早速、お師匠は二重にしたジップロックを持ち、手袋をして小屋に向かった。糞はプラ舟の中に集められていた。プラ舟からジップロックに糞を詰めるお師匠。スーパーの特売並みに袋に入れるのかと思いきや、詰める量がなんだか控えめだ。「他に馬の糞を欲しがる人もいないだろうし、安心して詰めれば良いのに…」そう言うと、お師匠はまたも控えめに2つかみほどの馬糞をジップロックに足した。
馬糞を詰める

さて、糞を詰めている間、馬車の管理人さんとしばらくお話をした。それはそうだろう。馬糞なんて一体何に使うのか、普通は気になる。生き物を見るためのトラップに使うと説明すると、「ああ、ウチの牧場にも虫ならくるよ。緑のとか、赤色のとか、ハエみたいなのが…」どうやら我々はハエを集めていると思われたようだ。一応違うのだと説明はしたが、通じただろうか。まぁ、通じたとしてもイメージに大して変わりはないだろうけれど。
我々のイメージはともかく、馬糞を快く分けていただいて馬車関係者の方々には感謝しかない。

実は鮮度の良い生の糞を手に入れるのは結構大変だ。肥料用に売っている牛糞などは、発酵処理済みで、今回の用途では決定的に匂いが足りない。仮に事前に新鮮な糞を手に入れる機会があったとしても、保存が問題だ。放置しておけば糞は必ず劣化する。糞の劣化とか、もはやよくわからない世界であるが、とにかく糞は生ものなのである。手練れの方々は冷凍庫に入れて保存するらしいが、一般の家族持ちには無理な話だ。よほど理解のある奥さんであれば話は別であろうが、誠に勝手ながら、そこまで理解がある女性だと、個人的には”ちょっと苦手”かもしれない。

首尾よく新鮮な糞を手に入れた我々の次なる目的地は奈良である。ベストは奈良公園付近なのだが、恐れ多くも世界遺産、かつ周辺は特別天然記念物のエリアである。当たり前だが採集などもってのほか。そんなところで採集した日には生物屋としての未来はない。お師匠はこの日のために、少し離れた採集可能エリアでのベストスポットを検討に検討を重ねていたらしい。リサーチしたポイントをカーナビに入力し、高速を走ること1時間。現地に到着した。

さすがにお師匠が全力で検討を重ねただけある地点である。なんというか、申し分がない樹林地だった。地点付近の林と民地との境界は鉄柵が並び、檻トラップがかかっている。やはりこの地でも獣害はひどいのだろう。ただ、我々の目的から考えるに、これは周囲に獣が多いということ。つまり、獣の糞を利用する生き物も多いということを示しており、これはこれで期待をそそる。手ごろな場所に5か所ほどのトラップを設置した。あとはしばらく放置するだけである。

トラップ回収までの間、奈良の主要部に戻り、食事をとることにした。食事は川魚関連のお店をチョイス。今回選んだのは、「柿の葉寿司総本家 平宗」さんである。ここには、酢締めの鮎を使った「献上鮎すし」なるメニューがあるのだが、残念ながらこれは8月限定とのことで食せなかった。代わりに「焼鮎すし」をいただく。鮎の開きの塩焼き(干物かな)が丸ごと一尾酢飯の上に載っており、じっくり焼き上げているせいか、鰭も変に目立つことなくさっくりと食べられる。塩加減も上品に抑えられており、美味であった。
焼鮎すし

食べ終わると、今度は奈良の街を歩く。うーむ。またも世界遺産か。このところ毎週のように世界遺産(今回は世界文化遺産)に行っている。忙しくて実感はしにくいものの、なんだかとても贅沢な時間を過ごしている気がする。
興福寺五重塔。糞の元(シカ)もいる。

それにしても奈良に来たのなんて何年ぶりだろう。それこそ修学旅行以来かもしれない。五重塔がある興福寺近辺を歩いていると、やはり目に付くのはシカとその糞。お師匠はシカを見るにつけ「糞の元がいる!」と口にするし、気のせいか目線は下向きだ。そんな邪念を振り払うべく、我々は国宝館へと向かい、阿修羅像はじめ、数々の仏像と対峙し、心を洗った。
そして、「国宝級の仏像はすごかった…」などと話しながら、再び馬糞トラップの待つ山へと向かったのだった。

トラップをかけてから経過すること2時間半。短時間ではあるが、はたして狙いの奴らは来ているだろうか?
不安は無きにしもあらずではあったが、相手は昼行性、かつ柔らかめの糞を好む。決着は早めにつくはずだ。さらに天候は台風一過で、適度に湿気のある晴れでほぼ無風というベストコンディション。ある程度勝算はあった。これでいないとすれば時期が悪かったということだろう。
現地に着いてトラップを眺めると、見た感じ糞の上に載っているのはハエばかり。失敗か?と思った次の瞬間、お師匠が気づく。「おっ!糞に穴空いてるじゃん!」すかさずピンセットで糞を掘り起こしていくお師匠。すると…おおぅ。
おお?糞に穴が…
坑道の奥にはオオセンチコガネ!

糞の中から出てきたのは見事な緑色のコガネムシ。オオセンチコガネだ。
いや、つくづく「黄金虫」とはよく言ったものである。糞の中にたたずむその姿の美しいことといったら…それこそ筆舌に尽くしがたい。
とりあえず、一頭をゲットし、「ゼロじゃなくてよかった。」と安堵する。しかしそれも束の間、お師匠は手グワを取り出し、ザッカザッカと糞の下の土を掘り始めた。
ここ数年、お師匠は年をとったなぁ…と感じていた。仕事の内容も胃の痛むデリケートな内容のものが多かったしなぁ…大変だっただろうなぁ…なんて思っていたのだが、この動きは往年の動きそのもの。みごと、土中からもう1頭を掘り出したのだった。
緑色のオオセンチコガネ。是非写真をクリックしてほしい。この色合いと造形、ヤバイから。

ここまでのところ大成功…かと思えたが、実は目指していたのはこの色のオオセンチコガネではない。とはいえ、1つ目のトラップで、時季も場所も外していないことは確認できた。
勢いづいて2つ目のトラップに向かうと、今度は明らかに1つ目よりもたくさんの穴が開いている!
掘り起こすと出るわ出るわ、普通のセンチコガネも混ざりながら全部で15頭くらい出てきたのではないだろうか。そして、その中には光り輝く青色のオオセンチコガネ、そう、目指していた通称”ルリセンチコガネ”、が!
この後も順調にトラップを回収し、さらに数個体のルリセンチコガネを採集したのであった。
かくして、プランBは、トラップ原料(糞)の入手、川魚料理堪能、世界遺産観光、ルリセンチコガネの採集、全ての工程をほとんどロスなくこなすというJTBのツアーでもここまで出来なかろうという完璧なる結果で幕を閉じたのである。
(※:目的達成後、馬糞は迷惑にならないように土中深く埋めております。)
ルリセンチコガネ

今回の採集はお師匠のプランに従って行った形であった。普段の私は昆虫をほとんど採らない。感覚としては「もー、わざわざ奈良までなんて、お師匠も好きだなー」くらいのテンションだったのである。しかし実際、「想定したトラップに想定通りの虫が来る」という状況を目にすると、なんとも言えない「おおおぉ!」という快感があった。加えて、糞の中に坑道を掘って潜むオオセンチコガネの姿は、今まで見たどの標本よりも、外で見つけたどの個体よりも美しく、それはそれは感動的なものであった。
 
私は野生生物の飼育欲求はほとんどなく、野外で見たいタイプの人間だ。淡水魚の場合だと、野外で出会った個体を水槽に移して飼育すると、魅力は半減以下に感じてしまう。本来早瀬にいる魚が、流れのない水槽で冷凍赤虫を食っている姿などを見てしまうと、見ていてなんだかやるせなくなってしまうのだ。やはり、野生生物は野外でその生態と併せて見てこそ輝くものであると思っている。今回見たオオセンチコガネ自体は珍しい虫でもなく、日本全国で結構普通に見られる昆虫である。しかし、新鮮な糞の中にたたずむ姿を見たのは初めてで、「こんな短時間で飛来して、糞を食っている!」という生態を体感した何とも言えない感動が、この黄金虫の美しさを倍増させたのは間違いない。
そういえば、お師匠の手グワで土を起こす時の鬼気迫るあの表情、そして素手にオオセンチコガネを乗せて高笑うあの姿、あれらを見た時にもなんだかオオセンチコガネを目にした時と似たような感覚を感じたなぁ…少なくとも、仕事場や義務的な調査では絶対に見られない姿で、なんなら後光すらさしていた気がする。あぁ、なるほど、そうか。あの人もまた、野外でこそ輝く生き物の一種なのかもしれないなぁ。

おかしいなぁ、最初は手袋してたんだけど…
家に帰り、ヤマビル被弾に気付く。そりゃいるよな。あんな獣臭い場所。油断しました。
家に帰って気付いたヤマビル被弾跡。あれだけ獣がいるんだもの、そりゃいるよね。油断した。